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仙台城下は慶長8年(1603)にほぼ最初の町割が完成し,その南端は土樋の真福寺辺りであった。 河原町付近は広瀬川の氾濫原で,奥州街道は当時,北目町から石名坂を通り宮沢橋のあたりで広瀬川を越えていた。 政宗の隠居所として若林城が築城された寛永5年(1628)に城下の第1次拡張がこの方面に行われ, 若林城周辺の城下町が整備されるとともに,新たな奥州街道筋として荒町から南鍛冶町,穀町,南材木町を経て河原町までが割り出された。
曹洞宗。瀧澤寺の末寺。慶長10年(1605)開山。 当地周辺は上弓ノ町と呼ばれ,寛永10年(1633)頃までに割り出された弓足軽の町であった。 境内に八幡大菩薩の石碑がある。周辺の弓衆から御弓八幡と呼ばれて信仰されたという。
最初の城下町割りの際はこの辺りが縁辺部。やはり城下防御のために配置されたのでしょうか。周囲に町が割り出されたのは開山後25年たってからです。
境内は最近あらためて整備されたと見受けられ,整然としていました。
(右)御弓八幡の石碑。
本殿の前に建っています。かつては八幡堂というお堂内に安置されていたようですが,今は仮の場所でしょうか。
新弓ノ町には八幡神社がありますが,
弓衆と八幡さんとは特に関係が深いのかもしれません。
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曹洞宗。大安寺と同じく長町の瀧澤寺の末寺。 天正年間(1573~1591)利府沢乙の天台宗寺院を現在地に移し,曹洞宗として再興された。 坂上田村麻呂が奥州東征の際に京都から護持し,利府菅谷で見初め側室とした堊玉(あくたま)姫に残したと伝わる聖観音菩薩像を本尊として祀り, 仙台三十三観音20番札所となっている。観音像は堊玉観音または子育観音とも呼ばれる。 また,山門入って左に石名坂の地名の由緒といわれる花魁石名の碑がある。 石名は石名坂出身の江戸新吉原の太夫で,明暦年間(1655~1658)石名追善のため吉原の楼主や遊女らが納めた大般若経600巻が当寺に保存されている。
山門は完成したてのようです。RCの壁構造?です。門前右に仙台三十三観音の標柱が建っています。
(下)石名の石碑。
承応3年(1654)と刻まれているそうです。石名は相当に名を馳せた花魁だったのでしょう。追善で般若経600巻とはすごいです。
(左)
これも新しそうな本堂。堂前左向かって左に観音堂の幟が。
本堂向かって左の観音堂。ここには千躰仏が祀られているそうです。堊玉観音はやはり本堂に祀られているとのことです。
(当HPをご覧頂いた方からの情報です。ありがとうございました)
仙台開府以前からこの地にあるお寺です。
この辺りの町割り以前から奥州街道が石名坂付近を通っていたとすると,当寺はその街道筋に面していたのかもしれません。
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金剛山宝性院は4代藩主伊達綱村が寛文4年(1664)に創建した真言宗寺院で,京都の三条愛染町から愛染明王を分祀し本尊とした。 寛永13年(1636)政宗の死去に伴い瑞鳳殿造営のため霊屋下から移った伊達家お抱えの染師たちが町を成した ここ南染師町にあって,愛染明王は藍染の守護神として信仰された。宝性院は明治に廃寺となり,愛染明王堂だけが残っている。
愛染明王はその名前からでしょうか,恋愛成就の神ともいわれているそうです。境内は小規模な児童公園のよう。
お堂で会合でもあるのでしょうか,履物があって障子が少し開いていました。そこに見えますか?猫が…おりました。
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浄土真宗。延宝8年(1680)開山。
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藩政時代初期,今の舟丁は弓足軽が住み弓ノ町と呼ばれた。そこに寛永14年(1637)になって遊女屋が移ったため弓衆は河原町の北裏に移りこの地を新弓ノ町と呼んだ。 元禄11年(1698)藩の重臣布施和泉定安は弓足軽の取立てを藩に進言して自らの加増禄で弓組を増置し,町の恩人とされた。 この神社は享保2年(1717)定安の子,布施備前定信が藩命により京都男山八幡宮を勧請し当町の守護神としたもので,同年亡くなった布施定安の霊も町神として合祀された。 境内には町内氏子一同により昭和31年(1956)建立された末社,布施大明神がある。
(上)布施大明神。
平成27年(2015)4月12日再訪
(上)社殿前左に布施大明神,手水舎,八幡神社標柱,山神と並んでいます。以前と変わりません。変わったのは鳥居扁額だけ…ですね。
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奥州街道を経て仙台城下への入口であった河原町には丁切根(ちょうぎんね)と言われた木戸があり,夜間は門を閉じて出入りが防がれていた。 木戸の鍵番は土地の地主「針生屋(針惣旅館)」であり,当社はもともと針惣の屋敷神として祀られていた。 明治になって荒廃したが,昭和23年(1948)町内有志により再興された。
平成27年(2015)4月12日再訪
鳥居前の門?が塗りなおされています。朱が眩しい。扁額は新しそうですが,以前からあったのかどうか,私の記憶・記録共に定かではありません。
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古くから町の守護神として奉られ,特に特に火防の神として信仰されている。
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由来は不詳だが,木ノ下の須賀神社の祭りの際には神輿をここまで移してきて神楽や巫女舞を行ったと云われており,その場所に建立されたと考えられる。
市内の同名神社からここまで神輿を運んで祭礼をしたといいます。昔から広瀬川はこの城下のシンボルだったようです。
ただ,残念ながら木ノ下の須賀神社は今はもう無くなってしまったようです。時代の流れでしょうか。
平成27年(2015)4月12日再訪
以前と変わった所は見当たりません。改めて見ると,ここの狛犬は毛並が妙にリアルですね。
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時期は不詳だが,長町の舞台八幡神社を分祀して創建されたと伝わる。 天明元年(1781)京都より松尾大明神の御位を請けた。
当HPご覧の方から情報を頂きました。弘冶または永禄時代(1555~1570)の創建と推測していいようです。ありがとうございました。('07.10.10)
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行人塚という小塚の上に建つ神社と伝わる。社殿は戦後の建立。かつて河原町は広瀬川の氾濫原で,洪水はこの付近から七郷,深沼を経て海に流れたという。 ある修験者が人柱となり,以後水害は起きなくなったことに住民が感謝してその場所に小塚を祀ったのが行人塚と云われている。
今は一見かつて小塚があったとは思えませんが,「行人塚」はこの付近の地名やすぐ東の踏切の名称にもなっています。
平成27年(2015)4月12日再訪
鳥居が塗り直され,社殿の扉も取り替えられています。きちんと管理されている様子です。ただ鳥居の扁額はあまりにも大事にされすぎかも…ですね。 古峯碑後ろの樹木がなくなっています。
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永禄年間(1558~69)京都伏見稲荷の分霊を勧請し創建。伊達政宗が初参勤の際に偶然見掛け,道中の安全を祈願したという。 政宗公は無事帰国後,その加護に感謝して「旅立明神」の名を贈り,笠と杖を奉納したと伝わる。以後,藩主代々江戸上下の際の道中の安全を祈願した。 現在も旅行安全,交通安全の守護神として有名。明治3年(1870)保食(うけもち)神社と改称。 明治43年(1910)7月七郷村村社。南小泉鎮守の「保食神社」ほか三輪神社,曽利町神社, 雷神社(蒲町),浪分神社を合祀している。
交通量の多い県道に面して赤い鳥居が堂々とそびえる。 当然,政宗公が偶然見つけた鳥居とは違うでしょうが,出発の時に見かければ思わず参拝して行きたくなるような佇まいです。
参道にある鳥居。扁額は「保食(うけもち)神社」となっています。かつて南小泉の少林(わかばやし)神社も
「保食神社」でしたが,明治になってここに移転合祀されました。
保食神は穀物の神で稲荷神社の祭神ということでこの名となったようですが,今はやはり「旅立稲荷」で通っています。
(上)耳開き地蔵。
(左)本殿。向かって左の境内社の浅間神社は,天正年間に当地に遷座された。
平成27年(2015)4月12日再訪
(下左)拝殿扁額。障害物を避けて撮っていたら中途半端な撮影に。 (下右)境内に変化はありません。
(上左)入口大鳥居扁額。上縁が破損。
(上右)二の鳥居扁額。「保食神社」とあります。
(左)浅間神社前に並ぶ石仏
(左)
入口大鳥居入ってすぐの正面にある手水。神狐がいました。
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お地蔵様の由緒等は不明。宝暦5年(1755)大飢饉の際,ここで粥を施したという。 それでも多くの餓死者を出し,亡くなった人たちの墓石が地蔵の後ろに集められている。
餓死者の供養に建立されたお地蔵様でしょうか。県道から入ります。途中から案内板があります。
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黄檗宗。安永3年(1774)7代藩主伊達重村夫人,観心院惇姫が宝暦飢饉の餓死者供養に発願して開山。 天保飢饉の際の叢(くさむら)塚は光寿院(連坊), 大法寺(北山)とともに仙台の三叢塚といわれる。 観心院が始めたと伝えられる灯籠流しは現在も毎年8月20日に行われ,夏の風物詩となっている。
山門は竜宮門。異彩を放っています。白が眩しい。
平成27年(2015)4月12日再訪
竜宮門の桃源院。相変わらずの存在感です。今回は叢塚発見。入口入ってすぐの右側です。字体等は同じのようですが,新しい石で造りなおしたようです。
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