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2005年03月05日(土) 東西南北デクノボーたちの人間模様

偶然なのではないかと思ってしまうが,また同じクレモナで事が起こった。
公園のベンチに座ってケバブを食べていると、
通りすがりのイタリア人に「ボナペティート」と言われた。

日本でも旅行者同士や電車で隣り合わせになったときなど、
知らないもの同士でも声を掛け合うものだが,
こういったほんの一瞬だけの一期一会であっても声を掛け合う事は稀である。

これはイタリアだけではなく世界中を回ってきて言える事だが,
同じ空間を共有しているもの同士は人間としてつながっている、
等しく生きているものであるという事を気づかされる。
そのへんは僕も環境によって、そうあるべき人間に変えさせられた部分はある。

突然「ボナペティート」と言われ「グラッツィエ」と素直に返せる。
「Do you speak English」と聞かれ、何かの勧誘だとわかれば「NO!」とはっきり言う。
ドア越しに人がやってくれば,先にドアを開けて「プレーゴ」と言って通す。
東に「ライター貸して」と言う人があれば「吸わない」といい、
西に「1ユーロくれ」と言う人があれば、コーヒーのレシートを渡し,
南に「ナカタ、ナカタ」と言う人があれば「ミキアーモ、イケダ」といい返し、
北にヒマなおっさんがいれば、仕方ないので話し相手になる。

日常の何気ない過ぎ去ってしまうような出来事なのに、そんな一瞬に気持ちよさを感じてしまう。
それらはあたりまえの事だが,物事を感じること自体にはあたりまえにはならないようにしたい。

自然体のスタイル


人間として生きている以上、人と関わり,
表面的なところではなく人の欲,目的のため何かを目指す,
何かをしたいというのを当然のように受け入れ,それを助ける。

前に進みたい人があれば、道をあける。
トイレに行きたい人があれば、案内する。
寒いという人があれば,羽織るものを差し出す。
つまづく人があれば、手を差し伸べる。

そういった立ち止まらなければ流れてしまう事が習慣、習性となっている。
建前ではなくとも生きられる。
そのままの自分でいられる。
それは生きる上でとても素敵な事である。

いろいろな人がいて、いろいろな表現がある。
自分の経験したモノだけでは見えない世界、突拍子もない事,何でもあり得るのだ。
圧倒されてしまうような大きなものの存在があり,
それに自分を合わせていかなくてはならないのではなく,
個人の生き方が尊重され,それが必要とされ,生かされる環境。


カラーバリエーション


色に置き換えて考えてみる。
日本を青としてイタリアを黄と例える。
色はすべての色を混ぜ合わせると黒になる。
僕はこの作品で表したい事の一つに、人間の多様性という事がある。

日本の青が日本のなかで限りなく黒に近づいたとして,
それは人々の欲するものであるということ。
個々の個性の強さではなく,誰もが良しとする最大公約数的な趣向のこと。
日本のなかでの平均の色で、一人一人の色が薄まっているという事でもある。

イタリアの黄というのは個々が強力に発する個性の強さ、
色のなかにうずもれていってしまう平均の色ではなく、
一つ一つが独立している単独の色たち。

これは偏ったものの見方ではあるが,例えばこういういい方ができる。
ただこの両国間には、こういった傾向は少なからず見える。
色に例えたのは,それぞれの国の文化や趣向を表す。
ということは各国,様々な色で置き換えることができ、
地球サイズで見ると,実に様々な色で世界が形成されていることがわかる。
地球単位だけではなく,国単位、州単位、家族単位等でも同じく表せる。


アメリカンドリームなどといわれるアメリカも、個々の存在を大切にするものの、
イタリアが中小企業ならアメリカは大企業。
巨大マーケットを相手にしている。
それは映画産業を見たら明快。
個々の存在などイタリアに比べたら押しつぶされてしまうくらいのものだ。

大量のマーケットを相手にしたとしても、
一個人の個性が大衆に影響を与えられるのは 0.1% にも及べば大成功だ。
その個が束ねられれば強烈な個性へと脱皮することは間違いない。

日本映画は外国語の字幕を付けることはコストがかかる割に、回収できるものが少ない。
だからいままで世界には普及することなかった。
しかし時代は変わった。
ヨーロッパのような多言語主義に見習わなくてはならない。

自分らしい生き方


ビデオカメラの技術で例える。
ホワイトバランスを取ることによって、基本の色になる。
ホワイトを取らないと,色は偏る。

頭の中を白くすると、基本に立ち返り,
そうしないでいると,偏りのある考えになる。
それは一長一短ともいえる。
ただ世の中にいる、事件やハプニングを起こす面白い存在は、
いい意味でも悪い意味でも、後者である。

僕から言わせれば日本の青は、みんな誰もが欲する平均の色を蔓延させ,
それを良しとし当然であるとする傾向がある。
そういう平均の色なんて僕の興味を引かない。
そんなカッツォな色を眺めるよりは,イタリアの黄を外人の自らが描き,
満足を得られるまで昇華して表現しきる。

強烈な個性体を集合させ、それを作り上げることで世の中の多様性を出す。
様々な個性の多さの表現であって,混同されてしまった混沌の中でのバラエティではない。
多様性とは多くの個性の存在の在り方を容認することであって,
人間の色が薄まっていき,うずもれ息苦しくなるような社会の、
人々の平均値を良しとすることでは決してない。

通過駅


クレモナではマルコの弟子の鈴木さんともシルビアとも連絡を取らず,
長野さんの家を確認したものの時間が押していて,
スチールの素材撮りにパルマの市内に向かった。
パルマ滞在も1時間くらいにして、すぐにシエナ行きのためボローニャへと移った。


いままで気がつかなかったが、ボローニャ駅が夜通し 24 時間営業であるわけ。
ミラノやフィレンツェ、ヴェネツィアが夜間閉まっているのに、
何故ボローニャは駅が開いているのか?

ここは東西南北すべて経由している駅である。
もちろんミラノも同じく経由されているが,国際線を含んでのことであり,
国内だけを見たら,いろんな地方から乗り入れている数では国内一かもしれない。
駅の作りが終着駅的ではなく,通過駅的な作りであることもあるかと思う。
夜行の止まる唯一の大きな駅でターミナル的にも作用している。

帰りが遅くなっても夜中に電車が到着する。
それはとても便利なことである。
ミラノに住んでいても最終の時間はいつも気にしなくてはならない。
でもここ中堅都市のボローニャに着く電車は夜中にもあるのだ。



コメント

■東西南北デクノボーたちの人間模様

お読みいただいたらわかるかと思いますが,
文体がいつのまにか「アメニモマケズ」的になっていたので,それを踏襲してみました。
日本は息苦しい社会が形成されていっているように見えますが,
そんな社会に水を注げたらいいと思います。
それぞれがみんなに合わせなくても、自分らしい自然な生き方があると思います。
誰もがそれをあたりまえと思える環境は、人間らしいのではないかと感じます。
イタリアがベストとは言いませんが,日本よりは人間的だと思います。
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池田 剛 2005/03/12 07:46

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