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FILM MAKER TAKESHI IKEDA
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2007年01月12日(金) 誰もが見られる世界

一枚の写真がある。
マルコの弟子であり、奥さんでもあるマリアン。
暗闇の中に浮かび上がるコントラバスの制作風景。
額に入れられるような大きなサイズに引きのばした。

マルコに差し出すと「che bello!」
写真を見て黙り込む。
ボソボソと声にならない音を発っしている。
遠くを見ているマルコの顔を見ながら、数秒流れた。
「sognando di giorno」

白昼夢とでも言うのだろうか?
マルコならではの言葉が出てくるのではないかと期待していた。
その場のインスピレーションで湧き出たタイトル。


力に変わるエネルギー


イタリア人の生き方の一つに人生の主人公は
「自分」である、というのがあるだろう。

日本人のメンタリティでは到底理解できないような、
攻撃的で人をおとしめるような
冗談にならない冗談も平気で言ってくる。

すべてがすべてではないが、
イタリア人はポジティブな人が多い。
マルコも例外ではない。

どんなものにも興味を持ち、
どんなものにも素晴らしいと感じ、
どんなものにも美しいと賞賛できる。

それがいいことかどうかは別にして、
そうやって自分に思い込ませることによって、
気持ちをプラスの感情に移行させられる。

そうすることでダメなものもよく見えてくる。
そうすることで人も自分も元気にさせる。
そうすることで人生も楽しく見えてくる。


藤田君


20歳の頃、通っていた教会に藤田君という男子がいた。
顔はいつも引きつっていて笑顔がない。
ホームレスのような暗さのあるイメージ。

彼はおそらく知的障害で、
以前僕が新聞を配達していた精神病院に通っていた。
しゃべり方はたどたどしく、話す内容は子供のようなこと。
僕より年上ではないかと思われるが、みんな藤田君と呼んでいた。

彼は積極的に話しかけるが、
みんなからはあまり話しかけられていなかった。
僕も特別話したことがあるわけでもなかったが、
僕のことは気にしていたようだった。

わからない


ある日、何のきっかけだったか忘れたが、
藤田君から手紙を受け取ったことがあった。
内容も記憶にはっきり残っていないものの、
僕が「夢を持っていて、がんばっている」
ことをうらやましがっている文面だった。
彼だからこそウソやかけひきのない、
心からの言葉と聞こえる。

どぎつい目でにらむかのように彼に見られていた。
その視線は蔑視されているようにしか思えなかった。
そんな彼に不器用にも好意的に受け入れられていたことが嬉しかった。
そんな彼の気持ちすらわからなかった。

人の心はとてつもなく難しい。

あまり人から相手されていない彼をいつも見ていた。
夢を追いかけている僕を蔑むでもなく、
純粋に自分の気持ちを投影するように励ましてくれた。

僕には夢を追いかけることはできないが、
君にはがんばってほしい、と。


そんな気持ちのある彼にこそ、
夢を見てほしい、と願う。


夢は見るもの


夢を見るということだけで僕はどれだけの幸せを手に入れているのだろう。
度々そう思うことがある。
僕にとって映画を撮ることは夢であって目的ではない。
目的のための手段である。

職人にも夢を抱いていて、
それを形にしている人もいれば、
そうでない人もいる。

仕事が夢である人もいれば、
別に夢を持つ人もいる。
サッカー観戦することや旅をすること、
芝居を見て感動して、希望を持つこと。


人によってやりたいと思うことは様々とある。
夢は誰しもが想い描くことのできるものであって、
必ずしも現実にする必要のあることではない。
夢は必ずしも叶えるべきものではない。

歪曲される価値


競争原理のもとで一定の基準を超えたときに夢が現実になるというものでもなく、
個人の基準で叶うか否かというもの。

映画を撮りたいと思っていても、
ハム作りにたずさわらなければ生きることができないという人もいるかもしれない。
社会的な貧困から脱することもできず、
映画を見たくても見れないという人もいるだろう。

夢を見るということは
少なくともそれにわずかでも近づくことのできる意志があるということ。
それだけで素晴らしい。

ましてやそれを現実に変えようなんていうのは、
それだけで恵まれている。
そういった環境にいながらにしてその選択をしないのは寂しくはないか?


とはいえ現実に変えようという力が働くと、
そこでは人間の汚れた現実を見てしまう。


くもりのない日常


夢どころか例えば映画を見ることすらできない人々もいることを忘れてはならない。
夢を見るというだけで、その人自身をプラスにするエネルギーがそこにはある。

夢は必ずしも「叶える」必要も「現実」にする必要も「形」にする必要もない。
それは時には人を傷つけるだけではなく、
出し抜いたりおとしめたり卑怯なことをせざるを得ないことがある。
自分に嘘をついたり、ダマしたりしなくてはならない事すらある。

よかれと思って発明したダイナマイトも
殺人のために使われてしまう。
信念を貫いて映画を撮っても思想弾圧を受けたりもする。
形にする事は意に反する事につながる場合もある。


夢を持つことは素晴らしく、
それで満ち足りるのであれば、
幸せのための道具として十分ではないだろうか?

夢は見て感じるもの。
夢が力をくれるなら、その力を信じたい。
スポーツ選手は夢を与える職業というなら、
ファンは観戦していることが夢のはず。

夢は大それたものではなく、
とても日常的で身近なもの。
誰もが手にできる現実的なもの。

「夢は見るもの」という認識が広まるならば、
世の中はもっと幸せに満ちていくことだろう。


ここあそこにあふれている


芸術などは素晴らしく、
誰にでもできる。
絵や音楽や詩にしても、
映画ですらも個人でできる。
誰もが生み出せて満足できればいい。
劇場で公開しなくても認められなくてもいい。

不幸なのはそれすらできない人。
しかしそれでも夢を見ることは可能である。

夢は人に希望を与えるためのものであって、
人を蹴落とすための道具ではない。

人とともに見ることのできる夢があり、
人とともに見ることのできる幸せがある。

日中、現実の中に現れた幻想的な空間の中で見た姿。
それも一つの夢。
工房で撮れた一枚だけでマルコとマリアンとも幸せを分かち合えたことに意味がある。




この日、撮影した映像の一部を公開しています。どうぞご覧下さい。
タングステン光 - Cremona 9




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