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2006年04月13日(木) 弦と弓の奏でるスペース

マエストロのいるクレモナという街は、
ミラノとはまた異なる作りをした小都市特有の雰囲気を漂わせている。
そんな個性ある感じが僕はたまらなく好きで、
街を味わうべくマルコの工房とは行き先を別にした道を歩いていた。

気がつくとマルコの職人仲間でもある、
ステファノ・トラブッキ氏の工房に来ていた。
ここは長野太郎さんに連れて行ってもらったことがある。
彼からは普段乗らない自転車を借りて、
イタリアの街を別の視点から楽しませてもらったような気がした。

トラブッキ氏にマルコについて聞いてみようとしたが、
あいにく工房に戻ってくるのが遅いとのことだったので断念。
マルコの工房に行くことにした。


狂わされたリズム


弦楽器製作を学びに来ている日本人の女の子が工房にいた。
彼女はマルコの作ったヴァイオリンを所持、それを修理に出していた。
田舎の人のいい兄ちゃんが、
たまたま来た来客に人なつこく矢継ぎ早に声をかけている。
二人はそんな感じのやりとりをしていた。

相手が女の子でテンションがあがっているのか?
ボンボン問いかけるマルコ。
トツトツと返事をする女の子。
不思議なリズムが奏でられている。

いつもと違う空気を僕は察していた。
撮るべきか撮らざるべきか迷う。
マルコだけの映像を撮ったり、
女の子を入れた映像を撮ったり、
いろいろ試すがどっちつかずの映像になってしまっている。

何を撮るべきか? のフォーカスが絞れていない。
迷いは映像にモロに出る。
そんなもの結果的に使えない。
それだけ僕は未熟者だということか?

迷いを起こすたくさんの要素


皆さんからの批判を恐れずに告白するのであれば,
僕はアドリブに弱い作家である。
常に次に何が起こるかわからない状況であることは百も承知ではあるものの,
いつもラッシュをする度に考えてしまう。
「ここはこうしておくべきだった」などと。
それが自分でも嫌で、なんとなく足踏みしてしまう事が多々ある。

結果的にやってしまった方がよかったという事の方が圧倒的に多い。
僕はイイとこどりであまりカメラを回さない。
でもまわした方があとで編集する際につなぎのフォローが利く。
でもそれができない事が多いのが僕の撮る映像だ。
先読みしすぎなのかもしれない。

一枚の写真、一秒の映像を撮るその裏には、
かなりの質と量の考察がなされている。
事前の準備からイメージ、
現場でのアングル探しやレンズ交換、
フォーカス合わせやホワイトバランスの調整もある。
チップやハードディスクの残りの容量も考えてしまったり。
そんな一つ一つの細かい要素などを考え出したらきりがない。

一つを取れば他の一つを殺すことになる。
両方ともイイトコ取りなど所詮はムリ。
荒削りでも見られるものを撮るべき。

絞られてくる己の技術


自分を職人としてとらえたとき、
僕にとっての職人技とは何だろうか?

細かく文章化したり箇条書きにしたり理論として明確にしたり。
自分の持ちあわせている技術を人に伝えたりできるのは、
そのように形に現れていたりするから。
野球で言えば野村さんのような人か?

そうではなく自分の腕に備わっている感覚が勝手に僕を動かす。
技術はすべて持っていて、それを一つ一つ理詰めにするのではなく、
リラックスしてとっさにインスピレーションとして動けるのは、
それだけ持ち合わせた技術を研ぎすませられているから。
自由自在に操れる状態であること。
表現者であり伝統を受け伝える立場ではない。
長嶋さんや新庄さんのような人だろう。

自分の持っているイメージに忠実に表現しようとしているのだ。

自失の自己表現


自分の存在は感じさせない。
職人技やその人を引き立て、魅せるようにする。
自分ではなく被写体を浮かび上がらせる。

自分のセンス云々などどうでもいいことであって、
被写体の素晴らしさを伝えることのできる自然さ。
それは演出というのではなく、自分のなさ、欠如感が大切。

決して自分はあってはならない。
自分を投影している職人のつぎはぎが自分の作品となっていく。
それが僕の表現。

いいたいことは自分では言わない。
そうしてしまうことは色あせてしまうだろう。
普遍的に人に伝わるようにするためには、
単純な中に芸術性を秘めることにつきる。


見えない空気の中に投影されたダシ。
僕にできるのはそれをつかみ取ること。

言葉が気付かせる真意


日本語でのインタビューならある程度自由度はきく。
大体自分がどういう方向へと話を導こうかプランがあれば、
多少話がずれてしまってもいろいろなアングルからフォローを入れる事で、
イメージ通りに持って行ける。

これがカメラを回しながらだと気が散ってしまい集中できなくなってしまう。
ましてやイタリア人とイタリア語を使ってともなると、
話の方向がどうなるかなんてわかりやしない。
それでなくとも先の読めない動きをするマルコ。
カメラでフォローするのも大変だ。

ものすごく陽気に歌を歌い始める時があれば,
僕に語りかけたり奥さんと話すこともあり,
黙りこんで -入って- しまうこともある。

どういうタイミングで声をかけたらいいのかも難しい。
ただ相手はイタリア人だから、そんな事は気にしなくていいのかもしれない。
言葉に迷わせられる必要はない。

黙って黙々と仕事をするマルコにボソッと声をかけてみたり、
ちょっと変わった動きでせわしく動いて気をひいてみたり、
それに対してどう反応してくるか、
アドリブのような感じでユニークなものを引き出せれば面白い。
マルコならではの感覚が広がっていけば素晴らしい。

それはシナリオを書くときと似たような感覚だろうか?
起承転結や序破急を元にすれば、
必ず池に石を投げ入れるシーンがある。
物語の転換点であり、それが話に花を持たせるところ。
ただこれはいわゆる一般的セオリーのこと。

僕の映画を面白くするのに、
言葉の枠組みは必要ない。
人と人とのかけあいが生むリズム。
あるのは人間同士の対峙だけ。


明確さと合理性


言葉での表現。
以心伝心という言葉があるくらい、
日本人は絵画的な読みの芸術心が育まれている人種である。

「これはこういうことだ」という数学的解釈ではなく、
ハッキリと言わないことで人によって
何通りもの見方、解釈が生じてくる。

イタリアでは混んだ地下鉄やトラムに乗っていると、
まだ前の駅を出てすぐくらいでも
「ペルメッソ(通して下さい)」
「シェンデ(降りますか?)」
などと言われる。

日本なら黙っていても降りる人はそういう雰囲気を出し,
乗り続ける人はそれを感じ取るもの。
それは相手に感情をゆだねるようなものなので、
誤解を生じやすい。

その状況を示す単語を使って説明するのではなく,
状況そのものを説明する傾向が海外にはある。
わからないことははっきり「わからない」と言う。
それは相手を否定しているわけではなくて,
理解を示す言葉である。

サッカーや演劇などにもあるだろう。
「間」とか「空気」というもの。
人のちょっとした心の動きを機敏に察知して、
先読みして動いたりアドリブをきかせたりする。

メンタルを強くするもの


日本人は無知を恥と思うのか?
わからないことは聞かない。
中国人は平気で日本人の僕に中国語で話しかけてくる。

物事をなるべく直接的に言わないよう、
相手を傷つけないようにして遠回しに断る。
それをわかるイタリア人もいるが、
はっきり伝えた方が相手のためにもいいことの方が多い。

日本人のメンタリティでは到底追いつけないほどに、
イタリア人は物事を茶化してくる。
冗談というものを冗談とは受け止められないレベルで。
また一つ失敗すれば、そのことを徹底的に責めて来るケースもある。
そんな環境だからこそ、言い訳がましい人間も多い。

しかし裏を返せばそれだけ失敗は許されないのである。
サッカーの選手などティフォージと呼ばれる熱狂的なサポーターによって、
シュートを外せば刺されかねないような状況下で生きている。

人々がどれだけ熱くなっているか?
それはスタジアムに行けば手に取るようにわかる。
「選手はサポーターの奴隷か?」
などと発言した選手もいる。

絶対とはいえないが相対的に見れば、
どちらのメンタルが強いかは明白である。
命がけか否か?

バラエティのあるアート


日本人の表現方法には一長一短がある。
コミュニケーションに支障をきたすようなものがあれば、
事細かにはっきりさせる必要がある。
しかしその微妙な空気とかリズムというものを楽しむことができるケース、
いわゆる芸術と呼ばれる表現の世界では、
言葉なしのコミュニケーション方法はその作品を昇華させる。。

マルコの工房に限らず、
僕の行く職人の工房には必ず「間」がある。
-入って- いる空気の流れる「間」。

僕は自分の映画の中にはそういう空気を流した方がいいと常々考えている。
それは映画でこそできること。
言葉ではっきり意思表示するのではなく、象徴的に語る。
それを見ている人が、それぞれの想いで解釈する。

それは僕が意図したものとは異なることもある。
自分の持ちあわせていない他人の感じているもの。
それを知ることにもつながる。

「空気」や「リズム」といった芸術的感性を大切に磨いている、
日本人独特のコミュニケーション方法は世界一美しい。




この日、撮影した映像の一部を公開しています。どうぞご覧下さい。

トラブッキの工房 (ボツテイク) - Cremona 5

ウマの骨 - Cremona 6

カンタンテ・ノッリ - Cremona 7




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