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FILM MAKER TAKESHI IKEDA
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2005年03月25日(金) レンズ越しの風景

いったいどうしたらいいのか途方に暮れていた。
前日、ミラノに到着して、その足でクレモナに行くという。
そして翌日のこの日は工房をまわる。
その行程の中でわずかでも会ってくださいと懇願していた。

ホームページでも応援のコメントをいただいているアントニオさんが、
イタリアに来ていたのだ。
コンタクトをとるための連絡先を伺っていたものの、
確実に到着しているはずの時間を過ぎてもいっこうにつながらない。
外国経由だから電話のかけ方が間違っているのだろうか?
しかし慣れているので間違うことはないはず。

アントニオの方々はマルコとは古い付き合いだという。
そんな人が彼に対してどういう想いで関わっているのかを知りたかった。
そして僕の映画に対する気持ちやマルコに対する気持ち、
半端に創ろうということではないのをわかってもらいたかった。
マルコの人柄の向こう側にいる人たちはきっと通じるものがあるはずだ、
と僕は信じて疑わなかった。

マルコは自分の創った物を手放すときは淋しいというが、
そんな心のこもったものを人の手に渡すときに、
アントニオの人々はマルコのその気持ちを大切にしているはずだ。

暗中模索の呪縛


連絡が取れない。
クレモナで彼らと会えるのはそうそうあることではない。
時間が双方とも限られているのは、わかりきっていることだが、
そんな中でも作品のクオリティをあげるための努力は惜しみたくはない。
どうしたものか。

この日までマルコの弟子の鈴木さんの学生時代の先生が取材でクレモナに来ていて、
ここ数日 2 人ともミラノに滞在していた。
この日の夜の電車で鈴木さんはクレモナに帰るところだった。
僕は鈴木さんよりも先にクレモナに行くつもりだったが、
アントニオさんと連絡が取れないことで足踏みをしていた。

できる限りの手は尽くそうとした。
クレモナにあるめぼしいホテルの番号を調べてアントニオさんの名前をあげて、
泊まっているか調べてもらう。
そして鈴木さんと会い、相談した。

週末は復活祭でどこも休みになる。
マルコの実家はクレモナ郊外の Corte de' Cortesi (親切ものの村という意味)にあり、
彼は週末、実家で母親の畑仕事を手伝うという。
だから工房にいない可能性も高かった。
ただ鈴木さんという強力な味方がいることもあり、マルコにもアントニオさんにも、
会えるかどうかはわからないけれども、とにかくクレモナに向かうことにした。

クレモナ行きの電車の中、クレモナに行ってできることを考えていた。
まずアントニオさんに会うこと。
元弟子の長野さんに会うこと。
そしてマルコの工房に行くこと。
できればマルコの畑仕事の手伝いを僕もさせてもらう。

絶対に何かしら結果を残す。
結果をイメージする事だけが、自分の行動を呼び起こし強い意志を持ち続けられる。
鈴木さんと話をしながら、たまにアントニオさんに電話をかけてみる。

電話が鳴る。
「よかった」
ホッとするのと同時に大丈夫なんだろうかという不安もかけめぐる。
電話したときはきっとマエストロたちと食事中だったんだろう。
11:00 以降にもう一度電話してください、とのことだった。
連絡が取れたことで自分の中で一区切りつけられた。

見えないものにも恐れない


街の中心の 1 つ星の安ホテルを訪れる。
死にそうなおじいさんが眠そうに出てくる。
一泊 24 ユーロ。
イタリアでこの金額は破格だ。
夜 12:00 には閉まるという。
アントニオさんの指定した時間を考えると、
先が読めないので宿泊を決めてしまわない方が身軽でよかった。

そのまま鈴木さんの荷物を置きに彼の部屋へ向かう。
部屋には当然のように作業台が置かれていて、
バイオリンやコントラバスが置かれていた。
たくさんの弦楽器に関する本が並べてある中に、妖怪図鑑も混じっていた。

パラパラと本をめくると、
楽器作りに要する様々な細かい知識などが散りばめられていた。
ストラディバリの作り方を継承する伝統的な方法やニスの意味など、
細かいことを突き詰めていったらホントに奥深いものなんだろうと思わされる。

外人の僕らにとっては作品の製作だけでなく、
言葉という壁も乗り越えなくてはならない要素だ。
そしてその先には人と人との関係の中に渦巻いているものも、
日本とは異なる複雑なものが存在しているのがイタリアである。

いいものを創れば認められる。
そういう単純な世界でもない。
いいものを創り、自分でその先を開拓していかなくてはならない。
それは僕のやっている映画でもまったく同じことがいえるのだ。

遅い夕食を取りにドゥオーモ裏のバールへ向かう。
酒を飲み他愛のない話をしながら、そのときを待つ。
やがて約束の 11:00 が訪れ、携帯を手に話を始める。

まさかというかやはり,当然この遅い時間から会う事は不可能だという返事。
そして翌日は別の街へ行くということ。
それでも僕に悔いが残らなかったのは、コンタクトすら不可能ではないかという、
最悪の状況から脱せて彼らとコンタクトを取る事が出来たのと,
わずかでも話が出来た事がある。
自分なりにできる手段を尽くすことはできた。

僕が感動したのは、
マルコがアントニオさんたちに対して僕の事を語っていた、というのを聞けたこと。
そしてまだ会ってもいず素性もわからない、馬の骨チンピラ映画製作人に対して、
温かい言葉をかけてもらえたこと。
僕はもうそれだけで昇天していた。

結局,最初に見つけた宿もすでに閉まっていたので,
鈴木さんの部屋に転がりこませてもらう事にして,今朝を迎えた。

長いときを経て見えてくる年輪


いないかも知れないという事は承知していたものの、マルコの工房へと向かう。
やはり彼はいなかった。
いままで何度もクレモナには来ているのに,
ストラディバリウス博物館にはまだ行っていなかったので,
時間があるしいい機会なので行ってみる事にした。

最初は 1500〜1600年代の絵画が並べられている美術館のようだった。
クレモナの画家の残した多くの絵があった。
修復されているものや絵がはげているもの,
また当時のまま残っていると思われるもの、様々だった。

僕は最近カラバッジョの画を研究している。
この美術館の絵はカラバッジョと同じ世代の作品ばかりだが,
すでにカラバッジョの明暗法を踏襲していると思われるものも数多く存在した。
カラバッジョの画にもバイオリンの原型ともなる楽器が描かれていたが,
ここの絵もそのような絵画はいくつかあった。

いまから何百年も前の絵が、巨大なものも小さなものも当時のまま残っている。
写真もない頃に、近くのものと遠くのものとの対比を現実的に描いている。
そんな昔の人の想像力に脱帽していた。
人の心に宿るものの象徴を表すのが絵画である。

そして美術館も奥まで進んでいくと,ストラディバリウス博物館に変わる。
バイオリンを作る行程を、実際のパーツと共に展示し解説してあるコーナー。
次に様々な種類のバイオリンが展示され,
最後にストラディバリが製作に使用していた器具が並べられていた。
それは約 300 年前のものがいまだに残されているのである。

いま僕の目の前にあるものを駆使して、彼は後世に残る名器を製作していた。
そして僕はその風景をイメージしていた。
ストラディバリが製作する姿。

目の前に現存し、演奏されるストラディバリ製作のバイオリンたち。
300 年も前の人が託した気持ちがいまここにまだ息づいている。
永遠を感じるようなそんな作品創り。
僕もそんな映画を創っていきたい。

バイオリンが出て来た当初よりも、技術が研究されつくした現代の方が、
いい楽器が生まれるのではないかと思うが、
当初作られていた楽器の方が名器呼ばれ,
それを越えるマエストロが出ないのは何故だろう。
ものすごく不思議な事である。

ストラディバリが心を傾けていたものが並ぶこの場所には、
きっと彼の心が生きているに違いない。
バイオリンの型の一つ一つに刻まれている文字を見ても,
その人間が透き通って見えてくる気がした。
そして僕が向き合っている現代のマエストロも、
いつしか語り継がれて,魂の輝きを称賛される事になるのだろう。

広がっていく人脈の中で


午後には長野太郎さんと連絡を取った。
僕が最初にマルコの工房に行ったとき、
マルコがしきりに「タロー、タロー」と言っていた彼である。

電話をしてみると僕の事を覚えてくれていた。
そして突然の訪問にも快く受け入れてくれた。
電話の向こうに聞こえる声も明るくハキハキと元気よく,
いかにもマルコファミリーだな、と思わせる声だった。


マルコというのはどこまでも僕に協力的なんだろうか?
彼を知れば知るほど,
彼を取り上げる事に決めた自分の選択に間違いがなかった事を確信する。
世の中で上手くいっている人とは、きっとこういう人のことを言うんだろう,
と、そう感じる。
彼自身に直接触れなくとも,まわりからでも学んでいく事が出来る。

人に対して誠実、願いを聞き入れる、否定しない。
想像力に長けていて大胆、楽観的。
それらをトータルすると優しさになる。
まわりの人は彼のことを口を揃えてシンパティコ (感じがいい) と言う。

長野さん,公園にいた僕をわざわざ迎えに来てくれた。
そして自転車を 2台持ってきて,これからあるリュータイオのところに行くという。
2日後に迫ったクレモナで開かれる日本の子供たちの演奏会を主宰しているらしい。
鈴木さんもコントラバスで演奏するとは言っていた。
その忙しい合間をぬって長野さんは僕と会ってくれていた。

着いたのはステファノ・トラブッキというリュータイオの工房。
僕はマルコ以外のリュータイオと会う気はさらさらなかったが,
他の人を見てみるのも悪くはなかった。
しかもこのトラブッキ、長野さんと協力して演奏会をしているだけに,
コントラバッシ・クレモネージの一人でマルコの元弟子だった。

当然彼と挨拶する場面もあった。
イタリア人は紹介されれば愛想よくしてくれるのは当然だが,
彼も例外ではなく、僕にいろいろと聞いてきてくれた。
その場でホームページも見てくれて,即座にお気に入りに加えていた。
彼の工房のポスターやパンフレット,名刺を渡してくれる。
こんなところにもマルコの精神が息づいているのか、と感じていた。


長野さんは腹から声が出ていて,イタリア人のように大きな声を出していた。
ボソボソ話す僕とは対照的だった。
快活で元気がいい。
イタリア語も問題なくコミュニケーションが取れている。
自信と確信を持って自分のやりたい事に挑んでいる、そんな印象を受けた。

それでいてイタリア人かぶれの人間と違うのは、ものすごく謙遜するところだった。
田舎町のクレモナだからなのかもしれないが,
イタリアに染まりきらずに日本人としての美しい部分を忘れずに持ち続けている。
僕が理想とする形に近いものが垣間見えた。
年齢は僕とほとんど同じでも、経験してきたものが分厚いんだろう。
10 年もこの街にいると、小さなしがらみの中でもがいて来ていたのかもしれない。

様々な職人を追い続けている中で,日本人の特徴としてよく聞くのが,
日本人はよく仕事をする。
几帳面に細かいところまで,正確にこなす。
でも作品に面白みがない。

長野さんの作品はどうなのかよく知らないけれども,
繊細で几帳面さを感じた。
彼は工房の作業台を自分で作ってしまったという。
工房はきれいに掃除が行き届いていて、チリ一つ見当たらない。
日本人のいい面なんだと思う。

傑出した才能


サッカーのプレーでもよく言われていること。
日本人のプレーは奇麗だという。
試合で勝つための気迫が表に出てくることがない。
外国人は良く言えばどん欲で必死、悪く言えば意地汚い。
日本人も言葉上は同じ必死であっても、必死の内容が違う。

勝つためには嘘でも使って汚い手でファール奪うなどということは、
日本人の選手で見る事はない。
ドーハの悲劇でも極論、手を使って止めていれば勝ち進んでいたかもしれない。

それらは日本人のいいところでもある。
誠実で真面目だから嘘がつけない。
ルールに反してまで勝とうなどというずるい事はしない。
いやできない。
それは日本人の心に深く根付いている伝統であるからだ。

決められた型から外れる事がなかなか出来ない。
例えば海外に来ている日本人でも海外に来ているという事だけで、
自分は日本の型から外れていると安心してしまうものである。
突拍子もない発想から生まれるものが、
いままでにない新しいものを生み出すはずなのに。

前回クレモナに来たときの日誌に書いたように,
日本で生きてきた人と、そうでない人では環境に差がある。
どちらかというとよそよそしさの多い日本と,
そうではなく向かうべきところへと向かう気持ちの強さは、
海外で育った人間の方が強い。
個人の生き方、個性が尊重され必要とされ生かされる。
日本のように平均を尊重し,変わった事は排除される傾向、
まわりにあわせなくてはいけない、そういう環境ではない。

人から下される偏った価値観による評価にビビりながら、おびえながら、
そんな精神的に不健康な中で過ごす必要がない。
人の人間としての価値は誰かが決めることのできるものではない。
誰もが均一ではない、各々の発想をもってしかるべきである。

土台がもともと違う人間であるからして、それは作品にも環境が影響されるものである。
イタリアの職人は大学卒ではない事が多く,比較的、尊敬されるようなものではないが、
僕の知っている日本人の職人さんは長野さんを含め、大卒の人がほとんどである。
彼らは職人たちに大卒なのに何で職人になろうとするのか?
不思議に思われるようだ。

そしてマルチな才能


長野さんの話を聞いていると,何でもやらなくてはならないという。
仕事がきっちりできるのはもちろんだが,
材料を集めたりコミュニケーションを取るために、
イタリア語が完璧であるのはもちろんのこと、
自作を科学的に研究するためや、宣材として作品の写真を撮ること。

楽器商との取引,マスコミの取材、日本での展示会での交渉、
イタリア人マエストロの仲介、通訳。
「マエストロになりたい」に出ていたのも,それらのうちの一つ。
僕が想像しているものも中にはあるが、きっとこういう事だろう。
そんなことを日常的にこなしている彼なら、
僕のような人間が飛び込みで来ても対応できるのは当然だ。

いいものを創り,その先を開拓する。
彼はバイオリンだけではなく、弓の勉強をして製作もしている。
そういうレベルまで来ていて,しっかりと地に足をつけて自分の道を進む。
ジャンルは違えども、僕が見習うべきところはかなり多い。

根が明るく,クレモナのマエストロたちの特徴や,
鈴木さんも知らないマルコの一面 (※) など,
初対面の僕なんぞに惜しげもなくインフォメーションを与えてくれた。
こういう人の優しさや親切に囲まれる事で、
それをそのまま作品創りに投影していけたらいい。
温かさにあふれた作品にして,地球上の人々の心の温暖化を推進する。

※ = マルコはいまの工房で Marcello Villa というリュータイオと共に製作していたらしい。
   Marcello は僕の中で当初リストアップしていたリュータイオの 5 人目の人物である。
   ちなみにマルコは 3 人目だった。


昨日、長野さんはアントニオさんたちと会っていたらしく, 
トラブッキを始め,コントラバッシ・クレモネージと昼をともにしたという。
そのときに撮った写真がすでに現像されていて,見させてもらえた。
そこでアントニオさん一同を目にする事が出来たのが、わずかな癒しになった。
僕がアントニオさんの話もしていたので、トラブッキも僕に一目置いたのかもしれなかった。

長野さんには口頭で改めてカメラを回させて下さいとお願いした。
もちろん彼は二つ返事で快諾してくれた。
それでも自分のやっている事が上手くいく事で決して横柄になってはいけない。
これは長野さんのおかげであり、その事に感謝し、その気持ちを伝える事。
それが人々に理解してもらえる一因になるのである。
誰に対してもそういう気持ち、忘れないように心に刻んでいたい。

「GLI ARTIGIANI」はこういった人々の良心の上で完成されていくストーリーである。
であるならば良心を映像化し、感謝を形にして返してくのが結末になる。
うまくいかなくとも決してあきらめず,そんなときこそチャンス!
明るく前を向いて人とのコラボレーションを楽しんでいたい。

いま考えている事は、長野さんの撮影をどういう形で撮ろうかという事である。
もしかすると最も難しいシーンになるのかも知れない。
なぜなら相手が日本人なのにイタリア語で語っているのを撮影しようとしているからだ。
これは今後、僕の過ごす夜が長くなっていくことが予想される。



コメント

■レンズ越しの風景

クレモナで初めて泊まった夜から一夜明けるまでの出来事。
マルコ不在の中,彼を通した人々との出会いがあった。
アントニオさん、長野さん、トラブッキ氏、そして同行してくれた鈴木さん。
今回のタイトルは、マルコという名のレンズを通した向こう側にいる人々を描いた日誌の意味。
レンズの向こう側にいる人たちは、レンズそのものを象徴したようで、
何も疑う事なく信じ愛すべき同胞たちだった。
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池田 剛 2005/03/29 04:16


■出会い

今日、ある映画を観ました。
池田さんがブログでも紹介しておられた「モーターサイクル・ダイアリーズ」です。
この映画の中にでてくる主人公エルネストは、
私のイメージしていたチェ・ゲバラとは異なる、純で不器用でお人好しな青年でした。
純だからこそ、人との出会いや、目に映る真実・世界を正面から真剣に受け止め、
影響を大きく受けた人だったんでしょう。
1つ1つの出会いに常に真剣であること、
1つ1つを確かに自分の中に刻み込むこと。出会い、ってすごい。
「泣かせよう」という作られ方をしてない映画でしたけど、
余韻に浸りながら「思い出し涙」が滲んでしまう作品でした。
あぁ、本物の出会い、って・・・・人の人生も世界観も変えちゃうものなんだ・・・・。

似てますね。エルネストと池田さん。「モーターサイクル・ダイアリーズ」と「GLI ARTIGIANI製作日誌」。
冒険の中での出会いによって世界を広げてそしてその出会いによって自分の人生を切り開こうとするそれぞれの主役たち。
もちろん、製作日誌だけではなく、「GLI ARTIGIANI」本編も期待してます!「GLI ARTIGIANI」の余韻で思い出し涙を流させてくださいね。
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こざる 2005/03/31 00:30


■本気の情熱

ゲバラの生き様は僕の理想でもあります。
理想を実現するために地位も名誉も投げ出し,命をも張る。
そこまでこだわり、追求する姿は職人さんたちにも相通ずるものがあります。
本気になって生きるのは、素晴らしく、生きていることを実感できるだろうと思います。
もみくちゃになってでも、僕は真摯な人にこだわって表現していくことをしたいです。
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池田 剛 2005/04/04 09:47


■Re:レンズ越しの風景

イケピーかわってないね。
ずっとかわらずに何かを追いかけていくことがすごく素敵なことだとようやくわかるようになりました。
私は何を探しているのだろうと自問自答しています。
ヨーロッパってあまり行く機会がないんだけどイケピーの映像見ているとどこも同じで自分の感じ方、
見方が大切なんだとあらためて感じました。謝謝!
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相良みどり 2005/04/14 12:58


■土台

ありがとうございます。
相良さんに比べたら僕なんかただのアマチュアにすぎないですから大したことないです。
だからこそ守っていけるものもあるのかもしれないですけど。
いろいろなことに挑戦していって、葛藤して自問自答して、
必死になって自分なりの答えを探しにいく。
表現するには僕も含めて、みんなそれなりの迷いがあるんでしょう。
海外にいるからよけい足もとすくわれないように、しっかり歩いていきたいです。
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池田 剛 2005/04/21 08:34

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