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FILM MAKER TAKESHI IKEDA
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2007年04月13日(金) はずれる枷

サマータイムに入り、日の出ている時間が長くなった。
早起きして駅に向かうにも、すでに朝日がまぶしく、
まばらな人並みながらもクラクションが鳴り響いている。

腰を下ろしたベンチ。
僕は遠くにあわせた焦点を無視して目をこする。
目を落とすと水を飲みにきたハトが群がっていた。
ハトは僕の目を気にするように
臆病な目線を送りながら慎重にクチバシを動かしている。

滑稽な行動に目をとられた僕はそのおかしな動きが気になっていた。
誰がそうしたのか?
明らかに人為的に足を切られていて、ハトは必死にそこを隠していた。
寒さなのか、恥じらいなのか、二度と狙われたくない恐怖心なのか、
必要以上に見えないようにかばっているようだった。

狂わされたリズム


発車の時間になっても来ない電車。
駅のアナウンスに注意深くなる。
走っている列車を横目に「ショーペロ (ストライキ)」という言葉が聞こえてくる。

それよりも気になっていたのが、
大勢待っていたパルマ行きの各駅停車。
いつものように出発直前の到着ホーム変更案内。
通勤時間の乗客は慣れたもので、
ぞろぞろと階段を下りて隣りのホームへと移動する。

それでも最近のイタリアの鉄道は改良に改良を重ねているようにも見える。
都市計画の一環かもしれないが、
ミラノ中央駅は大幅な改装が行われ、地下街もできるという。
新型のモニターの大量設置、新型車両の運行など、
何かが変化しているのが目に見えるようにわかる。

いつもタイムテーブルを調べているホームページも一新されており、
タイムテーブル自体も変わっていた。
ラヴェンナまで行くのにパルマとボローニャを経由して、
すべて各駅で行くことにしていた。

1時間半後のパルマ駅。
様子がおかしかったのはすでに気がついていた。
そう、前述の通りやはりこの日は「ショーペロ」だったのだ。
夕方にならないと再運行しないので、
パルマで半日を過ごさざるを得なくなってしまった。

生ハム職人のいるランギラーノがあるものの、訪れることができるわけでもない。
とはいってもここはただのトランジットの街。
何があるかと言えば何もない。
食と音楽の街も資料すらなければ、ポイントを絞って動くことすらできない。


カゲにある不条理


イタリアという国は皆さんが思い描いているような、
明るくて陽気で自分が人生の主役という人ばかり。
紳士な人が多くて女性には特に優しい風潮がある。
そんなステレオなイメージも大抵は間違ってはいない。

人がいいことは否定しないが、
コネの社会だけに表面的な部分だけなんてことも多い。
そして最悪なのは社会のシステムである。

電話会社は知らぬ間に勝手に個人との契約を交わしていたり、
銀行は平気で金勘定を間違え、預金者の残高を削りとる。
電気・ガスも適当な検針で破格の請求書を送りつけ、
とりあえず支払わないとストップさせられるどころか返金すらされない。

ただ生きているだけで正当な理由を盾に金をとられる日本社会に反して、
自分のサインなしでも合理的な言い訳を並べて、
いつの間にか所得を奪っていくシステム。
不条理な現実。
しかも従わざるを得ない。
ただこれもほんの一握りの変事。

いや、これが目に見えない人生の本当の姿なのかもしれない。
いまになってようやく世の中のルールがわかったのかもわからない。
ということはこれからが本当の意味で、
社会とコミュニケーションをとれるようになるというのか?

イタリア人はこんな現実から逃避したいがために、
楽天的に生きようとしているのかもしれない。
そうだとすれば、なんとネガティブなところから発した明るさだろうか?
足を切られながらも生きなければならないハトのようだ。

呼びよせられる場所


何にせよ僕はこの状況に落胆などしている場合ではない。
まずいまの自分自身が置かれている立場を受け止め、
一体自分が何をできるのか?
そのためにはどう動けばいいのか?
僕にとって答えを得るのに時間は要しなかった。

思い起こす人々からのカプチーノ
手にしているのはレンズ。
対峙するのは人。

ネットでも検索すれば簡単すぐに出てくるのだろうが、
僕の探しているのはそこに出てこない人。

匂いと地形、人々の行き交い。
大体こんなもんで見えてくる。
自分の感じるものに頼っていれば、誰も何も嘘はつかない。
答えはいつの間にか出てくる。

自分が住んでいるのが職人街のようなところ。
きっとそれに似たような空気。
街の少し外れた静かな通りに入ってみればいい。


無愛想の果て


汚れた工房。
積み重なった材料。
ホコリまみれの依頼品。
放置された水まわり。

オッサンの名はジョルジオ。
イスの修復をしていた。
解体しようとしているのに取れない枠組みと格闘。
機械でネジを外そうするが扱いに慣れてない。

窓の外から作業を眺める。
オッサンはボソボソとボヤキながら仕事に集中して、
僕のことなど相手にしない。
僕が手を貸したら簡単に作業が進みそうなのに、
そんなことすら言うこともできない雰囲気。

職人気質を絵に描いたような感覚か?
近寄りがたい雰囲気にこちらまで神経をとがらせてしまう。
しかしそれでもなかなか取れなかったネジも、
半ば本体を破壊しながら取り外しになんとか成功する。

肩を抜いて僕に声をかけてくるや時間を聞いてくる。
すると昼近くだったこともあり「昼飯に行かないと」と作業を中断。
そしてそれまでとは一変して僕に話しかけてくる。

オッサンはアート好きでよくミラノに来るらしく、
パルマなんかよりアートのたくさんあるミラノの方がいいぞとばかりに、
アート話に勝手に花を咲かせていた。
ミラノにあまり魅力を感じない僕に、
パルマにはないミラノの素晴らしさを語りかけてくる。
確かに言われてみれば言う通りのよさがミラノにはある。
そして30分くらい話したいだけ話しをして、そそくさと昼飯に行こうとする。


俯瞰のストーリー


昼も終わり、午後の作業を見ようともう一度オッサンの工房へと向かう。
オッサンは工房にはいなくて、向かいのショールームにいた。
声をかけられてようやくオッサンの存在に気がついた。
ショールームといっても古くさい家具、
いわゆるアンティークを扱う店だった。

てっきり午後も作業の続きで、インタビューができるものと思っていた。
しかしオッサンはとりあえずこの古ぼけたショールームを案内してくれた。
オッサンは久々に話を聞いてくれるカモを見つけ弾丸のように話してくる。
「これは何百年も前の家具だ」などとそれぞれ説明してくれる。
それが楽しそうで目が輝いていた。

ヴェローナのマリアーノも「何百年前の家具」というものを修復していたが、
ホントにそんな歴史があるんだな、とオッサンの話で理解した。
ヴェネツィアの鏡やら、彫られているデザインの年代やら、
彫刻家、芸術家の名前を出しながら話してくる。
このオッサン、とにかく歴史と芸術の先生並みに話をしてくる。

まぁ、イスに座れと2時間以上話しただろうか?
スゴい勢いで話していたが、僕にはほとんど何を言っているかがわかった。
なんだか知識をひけらかすかのようにも思えないことはないが、
僕が感心したのは、話が映画のようだったこと。

俯瞰から話を見て思ったのだが、話していたことはアートの話。
何年に誰が何をしたか。ダヴィンチが何それをした。
どの国のこの建物はこんな様式だとか。
長く生きていてあまり海外には行ったことはないけど
「あれは素晴らしいぞ」

経験が理解させる表現


「私は日本には行ったことないから想像でしか話せないけど、
君は日本をよく知っているだろ。
世界のいろんなところに行っていて、
いろんなものを見ていてうらやましい。
きっとまだまだ知らないスゴいことが世界にはたくさんあるはずだ」

世界の芸術から様相から、そして宗教や創世の話まで。
アダムやらイサクやらノアだとか、誰もが知っているような話。
仏教のことやヒマラヤの氷が解けたらどうなるなんて科学の話も。
すべて事実を並べているだけ。

僕がいまより若かったら
「で、オッサンは何をいいたいの?」なんて言ってしまいそうだが、
今回見えたことは「人生は楽しくて素晴らしい」
ということをオッサンは言いたかったということ。
それをほとんど言わずに回りくどくいろんな話をするのは、
イタリア人らしさなんだろう。
そのへんの描写が実に映画的だった。

得意になって話していたオッサン。
僕が一番いいと思ったのはネガティブさがなかったこと。
最初オッサンに見たイメージとは違う人物像が見えた。
意気揚々と話すオッサンにエネルギーをもらったと同時に、
うれしそうなオッサンの顔には「喜」の文字を記せたような気がしていた。

「この小さな街でいつも変わらない街並と変わらない住民との小さな関係の中で生きている」
パルマを動かず地元住民たちとのつながりを持ち続ける。
たくさんの人々の気持ちを反映するアートと並び、歴史もとても人間臭く、
そんな古くさいアンティークなものに一途に気持ちを投入するオッサンを見て、
改めて古いものを大切にする文化は美しく思えてくる。

ノックすれば開く


客の来ないアンティークショップ。
あまり街を出ないオッサン。

そんな小さな世界で生きている人でも、
生きることを楽しむことはいくらでもできる。
ふさいでしまいがちな環境だからこそ、表へと出て行こうとする。

システムを変えるには相当深い根を変えなければならない。
個人の力では簡単に壊せるものではない。
そんな中でも続いているのは自分の存在。
誰かに叩かれたところで終わらせてしまうよりも、
また何かを期待することでいい結果を得られることに終始する。

「前向きに生きる」
それはイヤなものにフタをして振り向かないのではなく、
じっくりと向き合ってそれとぶつかりあいながらも楽しむ生き方。

トラウマを引きずりながらも健気に生きる、足を切られたハト。
足止めをくらいながらも、できる範疇で生きながらえようとする本能。
きっと彼らもいつかは何も隠さず、気にすることもなく
空を羽ばたけることを願っているだろう。

帰り際、オッサンが毎日声を交わすという 90を超えた元気なじいさんが通り過ぎる。
杖をつきながらも、しっかりと踏みしめて歩いていた後ろ姿が印象的だった。




この日、撮影した映像の一部を公開しています。どうぞご覧下さい。

匂いが引きよせる - Parma 4

浮かび上がってきたもの - Parma 5




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